利用者の皆さんには
平等に関わるべきだと思いますか?
それとも、不平等に関わるべきだと思いますか?
平等ありき、というのが
この業界のルールみたいな風潮ですよね。
しかし、対象者は平等な人達ではありません。
またこちらを平等には扱いません。
サービスも平等ではありません。
制度も平等ではありません。
なのに私達だけ平等たれとはどうでしょうね。
マニュアルではなく人情で関わるなら
そこには平等はありません。
なので、私は不平等を推します。
ただし、あくまでもネガティブではなくポジティブにです。
本当に不平等でいいんですか?
利用する皆、一様に利用料を払い、利用する権利を持っています。。
そんな中で、自分以外の人が特別扱いされていたら、、
特別扱いされていると感じたらどうでしょう?
それでも不平等が良いと思われますか?
やはりその点に持っていかれますよね。
利用料の観点は私も考えました。
平等についてはきちんと使命を持ってそうありたいと思います。
サービス提供者として平等であるべきで、私も平等派です。
ですが現実、現場はどうでしょう?
気持ちではなく、現実的には不平等です。
利用料について例を出すなら、
何故地域に単位単価が違うんでしょう?
皆からそれぞれ利用料を支払ってもらっているから、
平等であるべきとお考えなのでしょうか?
サービス提供者は平等であるべきなのですか?
そして、現実的には不平等なのですか?
立場や現実、制度や利用料ではなく、
どう思われているのでしょうか?
不平等ですね、現実は。
理想論や綺麗事が今の現場のマニュアルになってますが、
現場のリアルには常に不平等が付きまといます。
結局、その人が不平等と感じれば不平等なんでしょう。
私達がどれほど平等で行おうとも。
私は平等で回りが不平等です。
平等なサービスを提供してますか?
不平等なサービスはどんな事を見てこられたのですか?
その上でこの議題なんでしょうか?
利用者さんは皆同じではありません。
それぞれ疾患も違えばADLも違う。
性格も違えば生活環境も違います。
例えばレクリエーションでボール投げをします。
当然、投げれる人もいれば投げれない人もいます。
みんなを平等に扱うことは、
利用者さんにとってはものすごく不平等な扱いになります。
介護とはマンツーマンです。
一人一人に寄り添い、
一人一人にえこひいきするべきだと思ってます
では、何故その個性豊かな対象者に一律のルールを設けるのか?
前提に皆保険制度の指針があるからなんでしょうが、
平等とはこれなんぞや?という定義にぶつかります。
私は不揃いがあってもいいとは思います。
不平等という定義が=不揃いとなるか、
そこの細かな認識の違いこそがサービスの根幹の捉え方をサービス提供者が各々考え、平等に近づこうとするのでしょう。
平等=正義とは思いません。
しかし、平等の精神は捨てていない、
何とも不思議なダブスタが我々にはあるのです
本当にその対応でいいですか?
確かに、疾患もADLも違いますし、性格も生活環境も違いますね
だからといって、レクレーションの場で、
他の利用者との対応に差をつけられたとしたら‥
その差によって、出来る範囲が狭い人がちやほやされたとして、
いろいろできる範囲が広い人は逆に、できることが当たり前と捉えられて、
そこまでちはほやされない‥とか
スタッフが、私にはあまりボールを回さないのに、
他の特定の人には積極的にボールを回して、
その人はうまくボールを扱えなくても、
ちょっとしたことで『すごーい!! さすが!!
やるじゃないですか!!』などと、
私にはあまりされない称賛の言葉が飛び交う
そんな【私』の想いは、どこにぶつければよいのでしょう?
前提に皆保険制度があるから
平等は重要とお考えになるのですか?
不揃いである、その細かな認識の違いを考えて、
結局は【平等】のほうに天秤を傾けるのでしょうか?
ダブルスタンダードとのことですが、
そもそも本当に、僕らの仕事はダブルスタンダードが
あってよいものなのでしょうか?
不平等、平等のどちらに天秤を傾けるのか、それは自由です。
ただ公平であるべきだと思います。
平等は横に一律のイメージに対して、公平は対面。
対価と言い換えてもいいでしょう。
その方の個性に私が対価として最大限のサービスを提供する。
横から見れば不平等、ですが対面で公平。
その公平の連続性が平等になるのでは?
回りを見渡せば不公平でもその人からすれば平等。
比べるから平等不平等が問題となるのです。
私はその方に公平にサービスを提供します。
その方の個性が他の方と比べると不平等に映ります。
公平であるべき、だけど不平等。これが私の答えかと。
レクリエーションの目的は記録を
争う事ではなく体を動かす事です
例えばボーリングでも、ADLの高い人はラインを引いてますが、
投げにくい人は露骨にスタートラインを近くします。
麻痺があり投げれない人は段ボールで
傾斜をつけてボールを離すだけで転がるようにします。
体の動く人が基準ではなく、
その人その人によって基準は変えないとなりません。
これはICFやノーマライゼーションの思想であり、現代介護の基本です
『すごーい!!さすが!!やるしゃないですか!!』それは全員にそう声をかけます
もしたとえばADLが高い方が
「体が不自由な人は構ってもらって
褒めてもらってずるい。
自分だってそうしてもらいたいのに!」という
ニーズがあるのだとしたら、
その精神的な飢えを満たすのが、
その方に合う下駄の提供なんではないですかね。
普通に体が動くのに褒められるのは
バカにされていると感じる人も居るでしょうし、
ニーズは、本当に人によるとしか言えません。
それは、そこまで一人一人のニーズを汲めるか?
というケア精度の問題であって、
平等と公平の違いではないと思います。
確かにレクリエーションの目的は
そうだと僕も思います(^^)
ただ、実際にレクをやっていてよくあることは、
【あの人ばかりヒイキじゃないか!】
【ルールを守ってない!】などの言葉で、
逆にそれらの言葉を投げかけられる人は、
スタッフから良いようにフォローされても、
実際は非常に嫌な経験をされている可能性が高いです
声掛けだけじゃすまない、
人の感情ってありますよね(^_^;)
利用する側が納得いかないような場合は、どうされますか?
言われるような精神的飢えを満たすような状況こそが、
下駄の提供ということですね
ただ、そこには【下駄で揃える】ような、
平等や公平ではないものがあるということでしょうか?
例えばADLの低い利用者さんばかりに
構ってたらそうですね!
だからADLの高い人には
高い人なりの構い方をします。
何の問題もなく自立してる方は施設にはいません。
必ずニーズがあり関わり方があります。
Aさんへの対応とBさんへの対応は違いますが、
どちらも懸命に対応すれば良いだけです。
公平にやりたいが、ケア能力(精度やキャパ)の問題で
各自に必要充分なケアを行き渡らせる事ができない、
という、事業所の能力の問題に近いように思いました。
だからそれは、まずは平等と公平の違いという
話ではない、という意味です。
ただ、事業所の能力の問題で公平にやれないために、
ご自分に必要なケア(各自違う)を
充分されない人とされる人に分かれてしまうなら、
最終的には不平等とも言えますね。
下駄の材料が不足していて、
一人に50cmまでの下駄しか配れない。
1mの下駄が欲しい人もいるのに。
でも50cm以下しか必要ない他の人にはそれで充分。
10cm必要な人にも50cm必要な人にも
1m必要な人にも、一律50cmの下駄を配る事は、
平等であって、公平ではないと思います。
で、1m必要な人に50cmのしか提供できない結果として
「自分に必要充分なケアが受けられない」人が出てしまった、
という意味では、その方にとっては結果的に不平等とも言えます。
挙げておられるケースは、「公平にやり切れない」結果の
「不平等」感なんですよね。
で、その不平等さは、良くはないけど、
やむを得ない部分はありますね…。
以前勤めていたデイサービスで、
一気にADLが悪化し、食事介助が必要になった方がいました。
で、他の、認知症で他人への攻撃が強い利用者様が
「なんであんな気持ち悪いのが来てるのよ!
私がああなったら同じようにしてくれるの!?」と、
来るたびに騒いでおられた事がありました。
この場合は、その方がどうしてそう思われたのか
突き止めてケアする事が、その人にフィットする下駄なのであり、
それは食事介助が必要な方に
食事介助を提供するのとイコールだと思いますが、
実際には、やはり質量ともにケアが難しく
捨て置かれやすかったり、問題視されて利用中止などの
措置をとられるのは、攻撃している側の利用者様です。
それは事業所の能力の問題だと思います。
可視化しづらかったり、後回しにされがちだったり、
解決しづらかったりで取りこぼされやすい部分が
あるというのは、課題ですね。
またまた中編に続きます☆
中編はこちら
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