中編になります☆
前編はこちら
ADLに合わせて同じスタートラインにする
(コレが公平)ことの担保があって、
初めて平等を得る事が出来るので。
私も皆さんに同じように「素敵〜♪」
とお声かけしちゃいます♪
分かるような分からないような
モヤっと感があります。
公平にするために不平等な配慮が
必要なのに何だか逆転してませんか…?
平等というのはこの場合、
同じ高さの下駄を一律に配るみたいな意味ですかね。
福祉というのは、それぞれの人に必要な高さの下駄を
必要に応じてお渡しする事のはず。
それは平等ではなくて公平という事でしょうけれど…。
身長は皆同じではないので、
皆がまったく同じサービスにはならないです。
ただ、その人に合うものを提供しようという気持ちだけが、
一律同じであれば良いと思います。
個性を背丈に例えておられるのだと思いますが、
では、皆が背丈が同じになるように、
それぞれ調整した下駄を配れば平等‥
ではなく公平になるのでしょうか?
平等と公平の違いは、どのようにお考えでしょう?
皆が全く同じサービスにはならないと思われるのなら、
それは不平等・不公平ではないでしょうか?
【その人に逢うものを提供しようという気持ちだけが、
一律同じであれば良いと思います】
それはすなわち、不平等・不公平にはなりませんか?
平等は同じ下駄を一律に配る事、
公平はそれぞれに合わせた下駄を配る事だと思っています。
具体例としては、例えばデイサービスで、
ある利用者さんは家事をやりたくて
実際やったほうがその方の心身維持に良い場合はやって頂く、
でも認知やADLが低下していてできない方はやらない、
とか、透析中で水分制限がある利用者さんには
他の方の半分しかお茶を出さない、
というような事だと思います。
逆に、大きく問題になるケースというのは
どういうもので、一律な対応というのは
どういうものを想定しておられるでしょうか。
妥当性もなく極端に扱いが違うというのであれば、
さすがにそれはマズいと思います。
職員が、嫌いな人に顔が似てる利用者さんが
イヤで紙パンツを替えないとか、それは職員の勝手なので。
利用者さんの利益が軸になっていて、
合理的な理由があるなら、
サービスに差はどうしてもあると思います。
要するに、下駄の存在は【高さを同じにするのではなく、
その人個々別のための高さの下駄を配る】ということでしょうか?
ちなみに僕は、今回は議題提供者として、
フラットな立場でコメントしていますので、
議論紛糾の為にも、具体的な僕の考えは
差し控えさせてくださいm(__)m
今回の議題に対しての結論は、【不平等】ということでしょうか?
はい、下駄については最初から一貫して
そのように書いているつもりです。
結論、というか、
一人一人のニーズが違うのに
「サービス内容」を機械的にまったく「平等」にやったら、
不公平になると思います。
「公平に全員のニーズを満たす」という点については
平等であるべきで、そういう意味では、
公平にやれば平等になると思います。
(が、実際には、必要なケアの質や量が、
事業所の能力を越える利用者様もいて、
不公平で不平等な結果になっている事も現実にはあります。)
ただ平等性の観点も必要だと考えていて、
それはつまり配る下駄の最低の高さを決めることだと思っています。
そうですね、このデイサービスではここまでです、
というラインも一つの平等性ですね。
何を軸に「平等」「公平」を設定するかという事かと思います。
全て平等です。
全て平等とのことですが、【全て平等】な環境で生きておられますか?
【全て平等】な環境で満足されるでしょうか?
日本は全て平等です。
平等ではない国はいっぱいあります。
日本の教育、性、仕事、宗教において平等です。
不満はないです。
今の自分があるのは全て自分自身の弱さです。
果たして日本は【全て平等の国】なのでしょうか?
星さんに不満はなくとも、
日本の【教育・性・仕事・宗教】において、
様々なスタンスの人の様々ン不満があるから、
日々それらが問題になり、ニュースや報道に
上がってくるのではないでしょうか?
今の自分というのは【強い自分】ですか?
自分自身の弱さとは現在も継続されていることですか?
例えば、【強い自分】と【弱い自分】という、
自分への二極化があったとして、
その両面に対して平等にあるためには、
どのようにすべきだと思われますか?
自分は今の自分があるのは
全て自分自身の弱さだと思っているので、
深く考えた事は無いです。
自分は個別に関わるべきと思います(*^ー^)ノ♪
そして、どうしたら、その方がもう一度頑張ってみようと
思われるかを皆で考えます(*^ー^)ノ♪
個別に関わるべきだと思われるのですね
では、その個別の関わりの中で、
他の利用者さんの【不平等だ】
と言う想いについては、
どうされますか?
そもそも、平等とか、不平等は、
介護士の関わりの視点がだと自分自身は、考えています。
ようは、介護士が関わらなければならない?
それって、誰の視点なのかと?
自分は、職員の子供も個別だし、
その子供に言われてお風呂に入らない人が
入るのも個別だと思います。
平等とか、不平等と考えてしまうと、
介護士が限られた職員で関わらなければならない?
それって、少し視野が狭い気がするんです。
それよりも、職員でも、その子供でも、
地域の人でも、職員が連れてきた犬でも、
個別での関わりになるのだと思っていますm(__)m
関わりが平等ではないと言うのなら、
それは職員だけの視点ではないかと考えます。
人が人らしく生きるために、どうすればできるのか、
一人称でケアを考える。
そこに平等とか、不平等ではなくて、
個をいかに大切にし、それを実現するために、
どれだけの人を巻き込むか(*^ー^)ノ♪
もう、ケア職員だけでケアする時代は終わり、
住んでいる人も含めて地域共生だと思っていますm(__)m
平等とか不平等は、
介護職の関わりの視点だと考えておられるんですね
介護職が関わるのは、非常に稀な場合を除くと
【介護福祉サービス事業所や施設】などになりますかね?
では、介護職が関わらない状況では、どうなるんでしょうか?
言われるように、地域社会のコミュニティーの
関わる人たちの人数を考えると、
介護現場の介護職の数は、非常に限られていますね!
最後の参考写真も踏まえた【個別での関わりになるのだと】という
考えと対して、介護職が関係する現場では、
【視野が狭くて違う】ということでしょうか?
施設介護でも、在宅介護でも同じです。
例えば、独居の方の訪問介護をするとして、
今の考え方は、職員一人で対応するのが基本ですよね。
でも、それは介護保険での話で、近所の方が訪ねてくれたり、
おかずを持って行って、少しお話をするでも、不平等になるのか?
そこで重要なのは、できないとか、不平等ではなく、
介護保険以外の事も含めて皆で考える視点が大切だと思いますm(__)m
ちなみにとある訪問では、別の利用者さんも一緒に訪問をしたり、
デイサービスの終わりに、掃除にこられ、
そのお礼に夕飯を食べて帰られる若年性認知症の方もおられます。
ようは、今の制度に人の個別ケアをあてはめる考え方でなく、
どの制度が効率よく、その方にマッチするかを考える
視点の切り替えが必要なのだと思います(*^ー^)ノ♪
平等というのは、
そこにこうあるべきだと思う視点が隠れていないでしょうか?
その基準を決めているのは誰かと言うことなんです。
平等とか、不平等は、基準が有るから発生します。
しかし人の暮らしにそもそも基準が有るでしょうか?
基準を作っているのは、
専門職で有ることも多く有ると思います(*^ー^)ノ♪
後編に続きます!
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